「サラリーマン」の大衆化(1)

 今回は、「サラリーマン」はいつ、いかにして社会的表徴となったのか、ということを考えたいと思います。

 第一に考えられるのは、1950年代です。1950年代、社会科学者の間で「大衆社会論」という議論が起こります。これはマルクス主義者的な問題意識からきたもので、資本家でも労働者でもない、新中間階級(ホワイトカラー、職業分類でいうと、事務従事者、販売員、管理職)をいかに社会に位置づけるかという議論です。加藤秀俊(1957)はサラリーマンが担い手となる「中間文化」を論じ[i]大河内一男は、60年代における「消費ブーム」の担い手としてのサラリーマンを論じました[ii]。しかしこの議論は時期尚早でした。統計上、サラリーマンは量的にはそれほど多くなかった(10~15%程度)上に、日本ではまだまだ「中間階級」と呼べるものは育っていなかったからです[iii]

 当時のサラリーマンの意識を探るため、彼らが目にしていたメディアに着目してみましょう。1950年代を代表するメディアとして、映画と雑誌をここでは取り上げます。そしてこのことは、若年層と中高年層にそれぞれ細分化したメディアと捉えることができます。50年代後半は日本映画の黄金期で、年間のべ10億人以上が映画館へ来場した年もありました。そして、鑑賞者は主に若者でした[iv]。当時流行していた映画シリーズの一つに「東宝社長シリーズ」がありました。このシリーズは、雲の上の存在である社長や重役たちを喜劇化して身近な存在として描くことで当時のサラリーマンに人気がありました。一方、中高年層が目にしていたであろう雑誌には、1962年創刊の『中央公論経営問題』が挙げられます。これは「実務インテリ」としての矜持を象徴する雑誌でした。しかしこの雑誌の読者層は、管理職等のエリートに限定されていました。つまり、大衆娯楽としては映画に象徴されるように一つの文化を形成していたが、定期的に購読される雑誌(=知の参照)としては未だエリート層に限られていたことが推し量れます。しかし、このように二分してしまうことは少し早計でしょう。なぜなら、1950年代~60年代にかけては、週刊誌ブームであったからです。主な読み手は通勤途中のサラリーマンでした。この現象について加藤秀俊は次のように分析しています。

 

 時の国際問題、政治問題についてのダイジェストをいちおう常識として詰めこんでおくことは知識人としての興味を満足させるし、映画物語やゴシップ、流行語などを仕入れておけば、同僚との『話題』にはこと欠かない。(加藤 1957: 258)

 

 ここでもやはり、かろうじてインテリとしての矜持が保たれていたことが分かるでしょう。これが変化するのは80年代です。(つづく)

 

[i] 加藤秀俊「中間文化論」『中央公論』 72(3) 1957.03 p.252-261

[ii] 大河内一男『日本的中間階級』(1960)

[iii] 橋本健二『格差の戦後史』(2013)

[iv]キネマ旬報』1956年8月下旬号 p.83-90