サラリーマン文化研究日記(谷原吏のブログ)

谷原吏(Tanihara Tsukasa)。日本学術振興会特別研究員(DC1・社会学)。30歳で脱サラして研究者を目指し、現在は慶應の博士課程に在籍しています。80年代前後のサラリーマン雑誌の研究をしています。

ドラマ『ふぞろいの林檎たち』とコンプレックスの80年代

ふぞろいの林檎たち1983年) 平均視聴率17.6%

ふぞろいの林檎たちII1985年) 平均視聴率18.0%

 

「学校どこですか?」パート第一話のタイトルです。劇中では主人公の一人、西寺が「『学校どこですか?』って聞かれるのが一番嫌だよ!!」と言う。そして主人公たちが社会人になったパートの第一話のタイトルは「会社どこですか?」。劇中で同じく西寺が「昔は『学校どこですか?』って聞かれるのが嫌だったけど、今は『会社どこですか?』って聞かれるのが嫌だよ!!」と言う。

 

このドラマは、若者のコンプレックスを扱ったドラマです。パートでは、「三流大学に通っている」ということが大きなコンプレックスとなり、ストーリーが進んでいく大前提となります。そしてそのコンプレックスは結局は解消されません。「どうしようもないもの」として留置されたまま、皆それぞれの日々を生きていきます。そういう意味では、現代のドラマのように、第一話から最終話にかけて登場人物が大きく変化していくということはあまりありません。今の感覚から見ると、なんというか匍匐前進のようなストーリー展開ともいえるでしょう。当時のプロデューサーの大山勝美と脚本家の山田太一は、「トレンディ・ドラマ」ではなく、リアルなものを描きたかったと言っています(文芸春秋 1997.6)が、確かに当時流行していたトレンディ・ドラマのような激しい展開やご都合主義的な展開は少ないように思います。というより、彼らの抱える問題はほとんど解決しないまま最終回を終えます。

 

少し歴史的な話をすると、70年代から80年代にかけては、若者の学校歴や職業に対するコンプレックスの「質」が変化してきた時代であるように思います。福間(2017)が描き出したような戦後間もない頃の「勤労青年」も確かに上級学校に進めないことにコンプレックスを感じていましたが、それは本人の努力不足の問題ではなく、家庭の経済状況という「時代」の問題でした。だからこそ、ある意味ストレートに世の中に不満を抱けたのでしょうが、「ふぞろいの林檎たち」の主人公たちはそうではありません。「自分の能力不足」という認識がありながら、ある種の「やりきれなさ」を抱えて日々を生きています。

 

 1980年代といえば、「虚構の時代」(大澤 2008)といわれ、田中康夫の「なんとなくクリスタル」(1980)に出てくるような、消費文化を享受する有名大学の学生がイメージされるかもしれませんが、その裏には多数の「やりきれない」コンプレックスを抱えた若者の存在があったのでしょう。

 

実際、このドラマには「消費でアイデンティティを構築する」という場面はほとんど出てきません。モノと人間ではなく、人間と人間の関係を徹底的に描いています(人間ドラマなのだから当然といえば当然ですが)。パート第一話冒頭で、仲手川がエレッセのベストという〈ユニフォーム〉を着て医学部のパーティに紛れ込む。このシーンでのみ唯一「エレッセのベスト」というモノがドラマ内で機能を持ちます。しかし仲手川は偽装がばれてすぐにパーティから追い出されてしまいます。以降、ドラマ内でモノが機能を持つことはありません。これは、消費によるアイデンティティ形成が第一話冒頭の時点で棄てられたことを意味するのではないでしょうか。

 

加えて、パートでは、岩田と西寺は営業先にぞんざいに扱われ、仲手川は会社で上司からパワハラを受けます。こうしたシーンが劇中で中心的に扱われることからも、若手サラリーマンの人間関係という苦悩も大衆化されようとしていたことがうかがえます。このことは、既存の80年代論にあるような「大学生による華やかな消費」という虚構だけではなく、「様々なコンプレックスや人間関係に悩む若者像」も大衆化されたことを示唆しているのではないでしょうか。