2021年度講義「メディア社会学/メディア社会心理学」
2021年度より、江戸川大学メディアコミュニケーション学部マス・コミュニケーション学科にて授業を持たせていただけることになりました。
内容的には、同学科の三つのコースである「ジャーナリズム」「ビジネス」「エンターテインメント」の三つにまたがるようなトピックを網羅的に扱い、方法的には、歴史学的アプローチまたは社会心理学的アプローチの研究を参照しながら、メディア研究の幕の内弁当的な授業を展開したいと考えています。
自分の専門で授業をさせていただくことは強く切望していたことですので、大変うれしい限りです。
自分の持てる知見の全てを活かし、学生さんの学びに貢献したいと思います。
シラバスにおける各回の題目は以下のようになっています(既に公開されています)。
https://www.edogawa-u.ac.jp/colleges/d_massmedia/index.html
第1回 メディアは社会とどのように関わっているのか?(ガイダンス)
第2回 フェイクニュースとは何か?
第3回 フェイクニュースへは対抗できるのか?
第4回 SNSは似た者同士のつながりか?
第5回 SNSは「みんなの意見」なのか?
第6回 クチコミの効果はどれくらいあるか?(ソーシャル・メディアとビジネス①)
第7回 「愛されアカウント」になるためには?(ソーシャル・メディアとビジネス②)
第8回 マス・メディアは私達の社会認識に影響を与えるのか?
第9回 多数派の自覚があるほど意見を言いやすいのか?
第10回 雑誌の力はすごかった(メディアの歴史と社会①)
第11回 テレビはどのように普及していったのか?(メディアの歴史と社会②)
第12回 映画を社会学的に研究するとはどういうことか?(メディアの歴史と社会③)
第13回 戦争を描くメディアはどのように受け取られてきたのか?
第14回 「サラリーマン」を取り巻くメディアはどのように変化してきたのか?
計算社会科学会(Society for Computational Social Science of Japan)が発足
「サラリーマンのメディア史」完結
2020年ももうすぐ終わりですので、今年度の業績を振り返っておきたいと思います。まだ未刊行の論文もありますが、以下の通りとなります(筆頭著者の論文のみ)。
「戦前期における職員層の複眼的な理解に向けて―『サラリーマン』『知識人』『消費者』」 2021.3 『ソシオロジ』(200)
「1950年代及び60年代におけるサラリーマンイメージの変容過程―東宝サラリーマン映画のメディア史的研究」2020.10 『三田社会学』(25)
「修養主義から心理主義へ―1980年代以降のビジネス雑誌が語る上昇アスピレーション」 pp.97-108 2020.7 『年報社会学論集』(33)
「サラリーマン雑誌の<中間性>―1980年代における知の編成の変容」pp. 105-123 2020.7 『マス・コミュニケーション研究』(97)
それぞれの論文が年代別になっていて、通して読むことで「サラリーマンのメディア史」が通覧できるようになっています。
正直何の役に立つのかは微妙なところですが、確実に一つの歴史を紡いだという自負はあります。これらの論文を統合して博士論文を書くのですが、おそらく、「サラリーマン」の歴史をその初めから終わりまで一気通貫できる本邦初の作品になるかと思います。
かつ、大衆メディアを扱ったことが大きな特徴です。サラリーマンの学歴構成や賃金、競争環境等の「実態」と併せて、各年代の大衆メディア(雑誌や映画)等で描かれたサラリーマンの「メディア効果」を、当時の批評や読者投稿、製作者の語り等の一次資料から明らかにしました。その意味で、「サラリーマン」の社会的な位置づけ(=「イメージ」)の変遷を辿ったものとなっています。このあたりが歴史学ではなく社会学っぽいところですかね。
客観的な統計資料を押さえるのは大前提ですが、その上で、大衆メディアで描かれた「サラリーマン」を取り巻く言説を掘り起こしたことで、「サラリーマンはどのように捉えられていたのか」あるいは「サラリーマンは何を求めていたのか」といった問いにも応えることを試みました。
「サラリーマン」という言葉は、大正の終わりごろに生まれ、昭和の終わりとともに終わったので、「もう一つの昭和史」ともいえそうです。
今は統計的手法を中心に研究を行っているので、ずいぶん違うことをやっているような気もしますが、一応、エビデンスに基づいた「メディア効果論」として私の中では一貫しているということにしています。
大久保祐作・會場健大, 2019,「p値とは何だったのか : Fisherの有意性検定とNeyman-Pearsonの仮説検定を超えるために」『生物科学』70(4), 238-251
非常に勉強になる論文を読んだので共有します。
大久保祐作・會場健大, 2019,「p値とは何だったのか : Fisherの有意性検定とNeyman- Pearsonの仮説検定を超えるために」『生物科学』70(4), 238-251
p値の話です。アメリカ統計学会が2016年に「有意水準が満たされるか否かだけにあらゆる判断を委ねるべきでない」という趣旨の声明を出して以来、社会科学においても安直にp値に頼るのは躊躇われる風潮があります。
この論文は、Fisherの有意性検定とNeyman-Pearsonの仮説検定まで遡り、両者におけるp値の捉え方や目的の相違を比較しながら、我々をp値の正しい理解に導いてくれます。具体的には、データの収集環境や実験の条件等によりp値の理解の仕方が異なってくるため、自身の研究におけるデータの性質(無作為化や反復、条件管理が可能か)、研究の目的(験証なのか反証なのか)によって、p値の解釈に気を付ける必要があることに気づかされます。研究者だけでなく、様々な立場の方々にもご一読いただきたい珠玉の論文です。統計学に関する最低限の知識は必要ですが、数式は全く出てきません。というより、p値と他の基準指標との数学的な関係性よりも、それぞれが必要とされた文脈や目的に記述の比重が置かれています。
左右の二極化は起こっていないかもしれないけれど、穏健な人と極端な人の二極化は起こっているのではないかという話
インターネットやSNSの利用が政治的志向の二極化を促進するかということは、これまで多くの研究が蓄積されています。理論的には、インターネットにおける情報の選択的接触により、政治的志向が二極化するという議論から始まりました(Sunstein 2001)。しかし多くの実証研究は、これを支持していません。インターネットやSNSの利用により、政治的態度はむしろ穏健化することを明らかにしています(例えば、Barberá 2015: Lee et al. 2014)。日本でも『ネットは社会を分断しない』(田中・浜屋 2019)という本が出版され、実証がなされています。
しかしここで三つ考えたいことがあります。第一に、関連研究はいずれも、「インターネットやSNSではむしろ自分と異なる意見に触れる機会が多い」人が多数派である(つまり選択的接触は限定的)ということを、穏健化に至るまでの媒介的な説明項としていることです。第二に、関連研究はいずれも大規模サーベイ調査によりなされている、従って、集団の大きな傾向を見ているということです。そして第三に、政治的態度を左右で測った場合、正規分布になるということです。つまり、穏健か極端かでいうと、穏健な人がマジョリティになるということです。この三つを考え合わせると、
マジョリティである穏健な人は、インターネットやSNSで選択的接触を行っておらず、それ故に、インターネットやSNSを利用しても分極化しない
というテーゼが想起されます。しかし一方で、選択的接触を行っている人は確実にいます。関連研究も、異質的な接触を行うのが「マジョリティ」だと言っているだけで、選択的接触を行う「マイノリティ」の存在は認めています。自分の意見と一致する情報を求める傾向は「確証バイアス」と呼ばれており、実験的な研究によって実証されています。そして「確証バイアス」は、政治的志向が強くなるほど強くなることも実証されています(Taber & Lodge 2006)。こうした知見から導かれることは、選択的接触を行っている人たちは、マイノリティであり、かつ政治的志向の強い人たちであるということが推測されます。以上から私の言いたいことを端的に表すと、次のようになります。
政治的志向の強いマイノリティは、インターネットやSNSで選択的接触を行っており、それ故に、インターネットやSNSの利用によりさらに分極化しているのではないか
そして、これまでの検討を合わせて考えると、次のようになります。
インターネットやSNSの利用により、穏健な人はますます穏健になり、極端な人はますます極端になる
つまり、穏健な人と極端な人の二極化は起こっているのではないかという話になるわけです。ただ、これを実証するのはしんどい作業です。第一に、政治的に極端な人と穏健な人で集団を分けなければなりません。これはなんとかなりそうです。しかし第二に、時系列データが必要になります。これで一気にハードルが上がります。
「二極化は進んでいない」と言われてもあまり実感に合わないなあと思っている方も多いと思います。その違和感の正体は、「穏健な人と極端な人の二極化」だったのかもしれません。
※「政治的に極端な人と穏健な人で分けて考える」という発想は、色々なことに応用が利きそうです。政治的な極端度は、(批判はあれど)「折り返し法」という簡便な変数化方法が確立されていますし、その上で一定の値で集団を区切れば二集団の出来上がりです。この二集団で別々に式を作れば、新たな知見にもつながるかもしれません。
(研究構想)新聞とTwitterの議題設定機能の比較
2カ月くらい前から考えていた、伝統的メディアと新しいメディアの関係についての研究が具体的な調査設計レベルに落ちてきたのでここに記しておきます。この研究は、別の角度から見れば、ネット世論の正体を明らかにすることに貢献するかと思います。
(問題意識)
RQ2 Twitterに議題設定される人はどのような人か?
新聞を「垂直型メディア」、Twitterを「水平型メディア」と捉え、双方の議題設定効果を比較します。基本的には、それぞれのメディアの争点の順位と公衆の争点認知の順位を比べてスピアマン順位相関係数を見ます。さらに、上記RQの通り、どのような人がそれぞれのメディアに議題設定されるのかを探索的に調査しようと思っています。指標は、デモグラフィック情報に加え、メディアリテラシー、メディア利用行動、生活満足度、イデオロギーの左右、ネット上の政治的な議論についてどう思うか等です(他調査中)。
(方法)
次回衆議院選挙時(年度内に選挙がなければ年度内の適宜のタイミング)に、選挙一カ月前から新聞の内容分析、Twitterのログデータ分析を行い、「コロナ対策」に関連するattributes(属性)で、言及される頻度を洗い出します。例えば、外出自粛、経済への影響、ワクチン開発、経済対策等、様々な属性が考えられます。これはどういう順位になるかは内容分析をしてみないと分かりません。
一方で、選挙後に別途サーベイ調査を行い、「コロナ対策」で新聞とTwitterで上位に挙がった属性について、それぞれどの程度重要かを尋ねていきます。これでマクロ的には、新聞とTwitterの議題設定効果の比較が可能になります。
加えて、(問題意識)で触れたRQを確かめるために、それぞれの指標の点数ごとにグループを分け、他の変数を統制した上で相関係数の比較を行います(この点に関しては、もっと信頼性の高い方法があるかもしれないので、勉強中です)。これで有意に差が出れば、RQ2に対しても一定の回答が与えられるでしょう。
(背景)
マス・コミュニケーション効果研究における主要な分野に「議題設定効果」というものがあります。これは例えば選挙時などに、マスメディアが報道する争点が人々の頭の中の争点(公衆アジェンダ)に影響を与えるという理論で、これまでに400近くの実証研究が重ねられています。
研究初期においては、新聞やテレビの内容分析から争点を順位付けし、それをサーベイ調査の項目に入れて公衆アジェンダの順位を出して比較するというやり方が主流でした。ここ10年くらいは、Twitterをメディアであると共に公衆アジェンダと見立て、新聞とTwitter間のintermediaの議題設定機能を明らかにする研究が蓄積されています。こうした研究においては、新聞とTwitterの時系列データを集めた上で、グレンジャー因果推定を行い、双方がどのように影響を与えるかを見ています。
それに対して私の研究は、Twitterを純粋にメディアと捉えます。というより、Salganik(2018)も指摘しているように、やはりTwitterのログデータを公衆アジェンダの代わりに用いるのはバイアスが大きすぎます。
そして、私の行政官としての経験から、日本において議題設定を行っているのはやはり伝統的メディアであるという直観があります。しかし一方で、役所を辞めてからは、Twitterを始めとするSNSの力の大きさを日々感じています。これからの行政はTwitter世論をも大切にしなければならないのでしょうか。特に今回のコロナ禍においては、Twitterはかなり荒れていたように思います。こうした背景から、上記のRQに至ったわけです。
今後の野望としては、科研費を取り続け、選挙の度に調査を行ってRQ1及び2に対する回答がどのように変遷していくかを見ていきたいと考えています。
「サラリーマン」の大衆化(1)
今回は、「サラリーマン」はいつ、いかにして社会的表徴となったのか、ということを考えたいと思います。
第一に考えられるのは、1950年代です。1950年代、社会科学者の間で「大衆社会論」という議論が起こります。これはマルクス主義者的な問題意識からきたもので、資本家でも労働者でもない、新中間階級(ホワイトカラー、職業分類でいうと、事務従事者、販売員、管理職)をいかに社会に位置づけるかという議論です。加藤秀俊(1957)はサラリーマンが担い手となる「中間文化」を論じ[i]、大河内一男は、60年代における「消費ブーム」の担い手としてのサラリーマンを論じました[ii]。しかしこの議論は時期尚早でした。統計上、サラリーマンは量的にはそれほど多くなかった(10~15%程度)上に、日本ではまだまだ「中間階級」と呼べるものは育っていなかったからです[iii]。
当時のサラリーマンの意識を探るため、彼らが目にしていたメディアに着目してみましょう。1950年代を代表するメディアとして、映画と雑誌をここでは取り上げます。そしてこのことは、若年層と中高年層にそれぞれ細分化したメディアと捉えることができます。50年代後半は日本映画の黄金期で、年間のべ10億人以上が映画館へ来場した年もありました。そして、鑑賞者は主に若者でした[iv]。当時流行していた映画シリーズの一つに「東宝社長シリーズ」がありました。このシリーズは、雲の上の存在である社長や重役たちを喜劇化して身近な存在として描くことで当時のサラリーマンに人気がありました。一方、中高年層が目にしていたであろう雑誌には、1962年創刊の『中央公論経営問題』が挙げられます。これは「実務インテリ」としての矜持を象徴する雑誌でした。しかしこの雑誌の読者層は、管理職等のエリートに限定されていました。つまり、大衆娯楽としては映画に象徴されるように一つの文化を形成していたが、定期的に購読される雑誌(=知の参照)としては未だエリート層に限られていたことが推し量れます。しかし、このように二分してしまうことは少し早計でしょう。なぜなら、1950年代~60年代にかけては、週刊誌ブームであったからです。主な読み手は通勤途中のサラリーマンでした。この現象について加藤秀俊は次のように分析しています。
時の国際問題、政治問題についてのダイジェストをいちおう常識として詰めこんでおくことは知識人としての興味を満足させるし、映画物語やゴシップ、流行語などを仕入れておけば、同僚との『話題』にはこと欠かない。(加藤 1957: 258)
ここでもやはり、かろうじてインテリとしての矜持が保たれていたことが分かるでしょう。これが変化するのは80年代です。(つづく)